これはブログではない

生物学(主に理論生物学)の論文を書くために読みます

チラシの裏

いつもと趣向が違うが、思考整理のため乱文を散らす。

考えすぎないよう、酒を飲みながら書く。これは乱文を書く際のイイワケである。

 

メインテーマは「自分だけが不幸」とは何か。

不幸・幸福の定義がホントは必要だあるが、一度置いておくことにする。

最初の引っ掛かりは「全員が”幸福”な状態は実現可能か?」という問題である。現時点での私の答えは「不可能」である。「全員が幸福な状態」を目指した政治が存在した(今も存在している?)ことは知識としてあるが、それでも地球上の全ての人類が24時間365日幸福であることは不可能だろう。足の小指をタンスにぶつけたって不幸だと思うし、良かれと思って抜いた槍がニアサーを起こしでもしたら、いよいよ自分だけが不幸だと感じるに違いない。

 

そういう全か無かの話をしているのではない、と怒られる。周りの人間は不幸もありつつ上手くいくこともあるようだが、俺は上手くいくことなどなく、不幸しかないのだ!だから、「自分だけが不幸なのだ」と。

 

24時間すべてではないとしても、幸福になる権利は全ての人にあると思う。幸福になる自由は全ての人にあると思う。

ただし、権利や自由はタダではない。奇跡もタダではないように。

何を支払えばいいのか、明確な答えを私は持っていない。少なくとも自分が支払ったことがあるのは、”幸福”と感じられるであろう目標(テストの点とか、ゲームのクリアとか)に向けた努力、”幸福”と感じられるであろう人間との付き合いに対する労力、これらの努力に必要となる金や体力、精神力などだろうか。

自分に念押ししておきたいことは、この結論は「幸福になりたければ努力して上記のものを支払え」ということではない。

現時点での結論、というか行き止まりは「幸福になる義務は誰も持ち合わせていない」ということである。幸福はタダではない。自分が目指す幸福の費用を賄うことが出来る人は支払えばいい。欲しければ借金でもして幸福を得ればいい。

しかし支払額に見合わぬものなら必要ない。幸福という阿片に縋る「義務」などない。

 

坂口安吾曰く、(引用開始)「人間は堕落する。(中略)それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上面だけの愚にもつかないものである。」(引用終了)

最後一文の是非はともかく、「人間は堕ち、幸福の喪失を認めた先で自分自身を発見し、救わねばならない」ということが私の主張と一致するところである。

 

この主張は一見、「虚無である世の中を受け入れ、強く前を向いて生きていく」ニーチェの「超人の思考」に似ているのかもしれない。しかし、私は現時点で前を向くか向かないかも、個人の好きにすればいいと思う。前を向くにもタダではない。前を向くという行動が必要な資金に見合うか、決めるのは各人が堕ちた先で見極めればよい。

 

「誰しも幸福になる権利はあるはずだ!」それは間違いない。しかし幸福になる義務はない。無理やり幸福というオアシスに連れていき、幸福という水を飲ませようとしても意思が無ければ飲むことはできない。かといって、オアシスに突き落としても溺死するだけである。幸福は義務ではない。

 

幸福は阿片である。求める間は苦しく、得ると至上の喜びであるが、効果が切れると狂乱の如く苦しい。麻薬に希望を持って前に進むもよし、見切りをつけ足るを知るもよし。「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」

 

 

 

ここまでが私の思考の現時点での終点である。いずれ沿線が延びるかもしれない。以下はここまでの思考に関連する愚かな人生の反省の弁を述べるものであるので、読まないでおいてほしい。

 

「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」

言うのは簡単であるが、実行するのは容易ではない。以前堕ちるところまで堕ちた人間に、励ましとして上記の一文を送ったことがある。その人間はついぞ前を向くことはなかった。今となっては、あの人間が「幸福に見切りをつけることで自分自身を救ったのだ」と信じるほかない。葬式を執り行った僧侶は偉そうに「空で皆様を見守っていますよ」などと言っていたが、自分自身の幸福さえも諦められる賢い人間が残った愚か者の面倒など見るはずがない。

死んだらそこまでだ。そんなことを坂口安吾も言っていた気がするが、該当の文章が見つからない。酒が回って来た。あの人間が唯一愛し求めた酒が、今度は私の体を回っている。